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ジョグジャ滞在記 5 

2月8日
朝から、イウィンさんのお父さんがやってきた。

おはようございます。こちらから伺わなくてすみません。

Tidak apa-apa! (大丈夫、大丈夫) Bagaimana Buna?(ブナはどうしている?)

元気ですよ。

タマンシスワ通りにある我が家の近くのネットカフェへ行く。日本語がうまく読めない。ところどころが伏せ字のようになっている。店に1台、26番のパソコンだけが日本語を読めると、後で分かった。

昼前に、ISI(芸術大学)の音楽心理学のジョハンさんがやってきた。僕は、震災被害を受けた芸術家を支援するグループ「ガムランを救え!」にも参加しているが、彼は、それと連携するグループ「Forum 7」の代表をしている。震災2周年の5月27日に、何が出来るのかを相談した。激甚地区であったバントゥル県にある小・中・高校の校舎がようやくこの1年で再建され、それを祝ってのイベントが同じ県内にあるISIを中心に盛大に行われる。「ガムランを救え!」のメンバーは、5月にジャワへ来て、被災した子供達や芸術家とのワークショップやコラボレーションをやりたいと計画中だが、バントゥル県以外の場所も候補に挙げた方がいいだろう、ということになった。

家で、ジョハンさんと一緒に、鶏の照り焼き、厚揚げとカチャン・パンジャン(ささげ)の炒め煮の昼食を食べた。ジャワではシンプルな家庭料理が本当においしい。

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昼からは、ブ・ティア先生に会うのと、プンドポを見るために、プジョクスマンへ出かけた。B・カタムソ通りを東へ入ると、突き当たりに昔ながらのパサール(市場)がある。さらに左へ折れて、門をくぐるとダレム・プジョクスマン(プジョクスモの屋敷)に入る。屋敷といっても鍵もかかっておらず、敷地内にはたくさんの家があり、たくさんの人が住んでいる。中庭の中央には、舞踊団の活動拠点であるプンドポがある。1年半前は、柱が傾き、屋根の一部が崩落し、大きなダメージを受けていた。屋根の瓦も色鮮やかに、立派に生まれ変わっていた。再建後のプンドポは、屋根、柱、壁、柵の色が変わっていた。すでに写真では見ていたが、ちょっとギョッとした。昨日は夜だったので、色まではよく分からなかったのだ。

プンドポの裏にあるブ・ティア先生のお宅におじゃました。ほぼ元の姿に戻っていた。震災後は、半壊した自宅で寝ることが出来ず、長い間テント暮らしだった。雨期には、ひどい雨が降るので、大変だっただろう。ひとり息子のアリン君もやって来て、舞踊団の定期公演など、これからのことについて話し合った。そこへ、JHS(ジョグジャ・ヘリテージ・ソサエティ)の代表であるシタ・ラレトノさんが、一緒にプンドポを見るためにやって来た。

震災後、JHSは、ダレム・プジョクスマン全体の完全な修復には、70億ルピア(約8,000万円以上)が必要だと試算していた。また、別のグループは、文化財の修復をするために記録保存が必要だと、屋敷のあちらこちらに番号や記号を書いたテープを貼っていた。しかし、結局、70億ルピアなんて誰も集められなかったし、テープを貼った人間は、それ以降、2度と現れなかった。

JHSは、もちろん助成をするという約束をしたわけではなく、単に案を示しただけで、シタさんは僕の活動のことも応援してくれていた。シタさんと共に、ブ・ティア先生に説明してもらいながら、プンドポを見学した。
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夕方になってきたが、まだ何人かの家を訪ねたかった。日が沈む頃、ISIの近くに住む舞踊の先生、スパドモさんの家に到着した。ISIの近くは激甚地区で、多くの集落が全壊だった。彼の家は半壊だったが、息子と共に崩れてきた隣家の壁の下敷きになった。ふたりとも一命は取り留めたが、息子は大腿部を骨折し、僕が前回訪れた時は、起きあがることも出来なかった。

ドアが閉まっていたので、窓から応接室を覗くと、スパドモさんが椅子に腰掛けて、静かに佇んでいた。目をつぶって、柔らかな顔をしていた。祈っているのだろうか。裏口へ回って、奥さんを呼び、再び表玄関へ回った。静かに目を開けたスパドモさんと再会の握手をした。

ああっ、

と、自分の服に目をやり、すまない、と奥へ入っていった。夕方の忙しい時間に、急に訪れるのは、本当は常識に反するのだ。申し訳ない・・・。Yシャツに着替えて出てきて、もう一度握手をした。こちらの無礼を詫びたが、スパドモさんも奥さんも本当に喜んでくれた。息子さんも回復して歩けるようになったそうだ。しかし、少しだけ足に障害が残り、スパドモさんはそのことを受け入れるのに苦しみ、前より祈る機会が増えたと教えてくれた。そう語る彼の顔は、以前よりずっと深い静けさをたたえていた。しばらくすると、奥さんが、鶏のスナズリ、タマゴ、白菜の入ったミー・クア(汁麺)を持ってきてくれた。夕食時に突然やって来るなんて、本当に非常識な客である。

タマンシスワ通りの我が家へ戻ると、マルガサリのユリちゃんとヒカリさんがガムランの練習をしていた。ふたりとも留学中である。ヒカリさんは、我が家に下宿している。しばらくすると、現代音楽の作曲家であるアスモロさんがやって来た。ジャワでは誰も弾けないような難解な作品を書く孤高の作曲家である。もう10年以上のつきあいになる。4人で、家から車で5分のパクアラマン宮殿へ出かけた。35日に1回あるガムランの演奏会の日だったのだ。この演奏会は、RRI(国立ラジオ局)でも生中継される。演奏会は9時に始まるが、その前に少し話をしようと「Forum 7」のジョハンさんとシスワディさんと待ち合わせをした。1時間ほど、5月の予定に関して話をした。

演奏会は、9時からたっぷり3時間続く。演奏会と書いたが、見に来る人はほとんどいない。この日も、僕たち4人、ジョハンさん、西洋人2名、インドネシア人数名だった。それでも演奏家は正装し、王宮の立派なプンドポで演奏が行われる。最初は降り出した雨の音で何も聞こえなかったが、気づくと雨は上がり、ガムランの音が闇に染み渡っていた。なんと贅沢な時間か。

12時ちょうどにガムランは終わる。4人でもう少し話をしようと、我が家へ引き返した。日本から持ってきたとっておきの地酒を開けた。ちびちびと飲みながら、朝方まで、ガムランのことや、留学生活のことなどいろいろと話した。

ジョグジャ滞在記 4 

今回は、震災の1か月半後にジョグジャを訪れて以来の久々の訪問だった。

2008年2月7日
前日の夜8時半頃、ジョグジャの我が家に到着。次々と知人に電話をかけて、近況を聞き、明日からの予定を決めた。今回は3日間だけの滞在なので、なるべく効率よく回らなければならない。

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朝から、プジョクスマン舞踊団の中心メンバーで、芸術高校の校長でもあるスナルディさんの家へ出かけた。彼の家は震災で全壊になったが、今は敷地内に新しい家がほぼ出来上がり、庭先では職人さんがペンキを塗っていた。豆腐、テンペなどをいただきながら、ISI(芸術大学)の教官である奥さんのトゥティさんも加わって、2時間ほど、震災以降の舞踊団、芸術高校、ISIのことなど、あれやこれや話を聞いた。帰り際に、中庭へ案内してくれた。東側には、震災で全壊した家がまだ残っており、西側の新しい棟には、台所とマンディ部屋が出来ていた。窓枠に緑色のペンキが光っていた。「新婚夫婦みたいだね。」と言うと、トゥティさんが照れくさそうに笑った。
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自宅へ帰って、オポル・アヤム(鶏のココナッツ煮)の昼食を食べた。震災で、我が家も結構あちらこちらに大きなヒビが入ったが、すっかりきれいに治っていた。

午後からも何人かの知り合いに会い、活動の様子を聞いた。夕方、プジョクスマンのメンバーでもあり、チャクラワラ財団のメンバーでもあるジニー・パークさんの家を訪れた。プジョクスマン支援に関しては、ジニーさんと協力しているので、まずは彼女に最近の様子を聞きたかったのだ。プンドポの再建はマンディリ銀行が行ったこと、子供達の舞踊クラスは依然としてタマン・ブダヤ(州の文化センター)で行われていることなど、経緯を詳しく聞いた。メールでもやりとりしていたが、直接会わなければ分からないことがたくさんあった。

ジニーさんの家で、アヤム・ゴレン(鶏の唐揚げ)をごちそうになり、夫のランテップさんと共に、プジョクスマンへ出かけた。

ジニーさんが声をかけ、プジョクスマンの現代表であるブ・ティア先生、元代表のバンビン先生、ベテランメンバーでプンドポの再建に関わったハルタントさんが集まってくれていた。6人でブ・ティア先生お手製の春巻きとケーキを食べながら、主にプンドポの再建に関しての話を聞いた。また、まだ再建されていないプリンギタン(プンドポの母屋)、舞踊団事務所、楽器・衣装の倉庫などについてもいろんな案を出し合った。

プンドポ再建の経緯は以下の通りである。

震災後、当初、プンドポの再建には、プジョクスマン支援の会やチャクラワラ財団の義援金を充てる予定であったが、ハルタントさんが中心となって、マンディリ銀行へも援助を求めた。マンディリ銀行は、プジョクスマンのプンドポが伝統文化を教育する重要な場であることに理解を示し、援助することを決定した。そして、マンディリ銀行がプンドポの再建を一括して請け負うことになった。デザイン、工事のすべてをマンディリ銀行が行い、終了後、プジョクスマン側に引き渡すということが条件になった。責任の所在を明らかにすることと、企業の名前がはっきりと出ることが目的だった。プジョクスマン側からは、建築に詳しいハルタントさんが事前の会議に加わった。
前回滞在した時に出席した会議で問題になったのは、プジョクスマンの建物の所有権、使用権、契約書に関してである。元々は王宮の所有であったが、すでにプジョクスモ家に所有権は移っていることが判明した。しかし、売買は出来ないので、実質的には永久的な使用権である。元々、プジョクスモ家と舞踊団は契約書を作っていなかったので、そのことが再建の足かせにもなっていたのだが、マンディリ銀行という第三者が入ることによって、なんとか契約書をつくることができた。平日に関しては、舞踊団がプンドポを無償で使用出来ることになった。しかし、プリンギタン(母屋)に関しては、まだ話がまとまっていない。

この日は雨が降っており、雨漏りがしていた。プンドポがまだ引き渡されていない今の段階では、クレームを付けられるとのことだった。また、まだ修繕されていないプリンギタン(母屋)は雨漏りというか、雨が降り注いでおり、水がプンドポまで流れ出していた。こちらの対策も考えなければならない。プンドポは、2月の末に引き渡されるとのことだ。現在、子供達のクラスはタマン・ブダヤ(州の文化センター)の廊下で行われているが、まもなくある子供達の舞踊の検定試験がプンドポ再建のこけら落としになる予定だ。

プジョクスマン支援の会の義援金は、2006年末に行われた震災記念公演、2007年に行われた2公演、および子供達のクラスのための諸経費に使われている。今後は、楽器・衣装の修繕や保管場所の確保、事務所の再建などに使われる予定である。プリンギタン(母屋)に関しては、引き続きマンディリ銀行に援助を求めることになった。

9時30分頃にプンドポを後にして、プランバナンの近くで行われているワヤンの会場へ向かった。ここで、ISIのハルヨソさんと待ち合わせていたのだ。ワヤンをしばらく見て、クラテンのハルディヨさん(バ・ルラ)の家へ向かった。35日に1回行われるムルヨララスの集まりが開かれていたからだ。前日に電話したソロのサプトノ先生が教えてくれたのだ。ガムランが演奏される中、祖先の霊と交流する力があるハルディヨさんが祈りを捧げる集いである。クラテンもまた震災で大きな被害を受けた地域だった。クラテンに住むISIのトゥグ先生とも再会した。元気な顔をして、グンデルを弾いていた。前回の滞在で会った時には、壊滅的な被害を受けた村に自力で建てたバラックの前で、憔悴しきった表情をしていたので、グンデルを弾いている先生の顔を見られて、とてもうれしかった。演奏は午前1時過ぎまで続いた。サプトノ先生、ガムラン職人のサロヨさん、ISIのミロトさん、ガジャマダ大学の考古学のティンブル先生とも再会し、ハルディヨさんのお宅でご飯をいただいた。ごちそうになってばかりである。深夜、真っ暗闇のクラテンからジョグジャの家まで、車を運転して戻らなければならなかったが、興奮していたのか疲れは感じなかった。

ジョグジャ滞在記 3 

7月16日
今日は日曜日だ。震災前なら、午前中にクラトンで舞踊公演と練習があった。以前は王宮の舞踊団が公演を行っていたが、現在では、複数の舞踊グループをが持ち回りで公演を行っている。入り口から入ってすぐ右側のスリマガンティという大きなプンドポで、ISI(芸術大学)、SMKI(芸術高校)、プジョクスマン舞踊団などが公演を行っている。奥のカサトリアンというプンドポでは、希望者が粛々と練習に励んでいる。

僕も以前は、ISIやプジョクスマンのメンバーとして踊ったり、練習に参加していた。踊り手は朝やってくると、王宮の裏口からそっと入って行く。この時、必ず門の外でバイクのエンジンを切らなければならない。そして、ものすごく暗い楽屋に入って着替える。小さな銅鑼(ブンデ)の音が鳴ると、踊り手はプンドポまで王宮の中庭の砂を踏みしめて、歩いていく。

しかし、震災で公演は中断したままだった。スリマガンティの横にあるもうひとつのトラジュマスというプンドポは全壊し、ウンパッという礎石を残し、跡形もなくきれいに片づけられている。

舞踊公演の1日も早い再開を願う。


この日は、いろんな人が朝から訪ねてくる日になった。
まず、最初はISIのシスワディ先生とジョハン先生だ。ふたりとももう長く仲良くさせてもらっている。マルガサリの中川真さんが立ち上げた「ガムランを救え!」のジョグジャ側のカウンターグループ「FORUM 7」のメンバーになっている。僕もこの「ガムランを救え!」のメンバーなので、こちらの件をいろいろと話し合った。

次は、マルガサリが今年招聘することになっているISIのラハルジョ先生が奥さんとやって来た。彼の家も大きな被害を受けたそうだ。彼の父スハルディさんは数年前に亡くなったが、ガムラン演奏家の大御所だった人だ。スハルディ先生の家も大きな被害を受けたそうだ。

そして次は、教育大学のサンティヨ先生と州の文化局のムスティコさんがやってきた。サンティヨ先生は、僕がずっと荒形を習っている先生だ。お父さんはナルトモ先生といって、もうそれはあこがれの荒型の大名人。彼ら二人は、日本で舞踊を通じて何かできることはないか、と相談にやってきたのだ。

夕方、ハメンク・ブウォノ10世の弟であるグスティ・ユダニングラッの邸宅にあるプンドポで行われていた舞踊の練習を見に行った。今年は、ジョグジャカルタ王宮創立250周年の年に当たっており、本来はいろんな行事が目白押しだったのだ。女性9人で踊るブドヨと舞踊劇ワヤン・ウォンが9月に催される予定になっていて、その第1回目の練習日だったのだ。
ジョグジャの男性舞踊家にとって、ワヤン・ウォンに出ることは最高の喜びである。僕自身も1998年に、今のスルタンの即位10周年を記念して行われたワヤン・ウォンに出演したのは、貴重な体験になっている。

夜、プジョクスマンで会議が開かれた。
プンドポの横に張られたモスグリーンの大きなテントが会場である。予定時刻の7時に行くと、プジョクスモ家のロモ・エプヌがソファーに座ってテレビを見ていた。テントではあるが、工夫してなかなか快適な空間になっている。半壊した家の部分にテレビや水屋を置き、テントには応接セットを並べている。やや遅れて他の出席者も到着した。

出席者は、プジョクスモ家からロモ・エプヌ(故プジョクスモの長男)、ロモ・デティ(故プジョクスモ夫人の弟)、舞踊団のメンバーでもあるがブ・ティア(故プジョクスモ夫人の弟の妻)、舞踊団からバンビン先生(ISIの先生でもある)、ジニーさん(韓国系元アメリカ人、チャックラワラ財団メンバー)、佐久間である。

僕以外のメンバーで、すでに2度の会議が開かれていた。
議題は、主に建物の再建に関してである。建物の再建には、ジョグジャ・ヘリテージ・ソサエティ(JHS)も関わっていた。彼らが出した再建策が想定外のものだった。
事業費7,000,000,000ルピア!70億ルピア=約1億円である。
これはプンドポやダレムだけでなく、プジョクスマンという集落の主要な部分を、創建当時のものに戻すれば、という試算に基づいている。プジョクスマンはプジョクスモ家の邸宅を中心とする城壁に囲まれた集落である。入り口に門があり城壁が周囲を囲んでいる。城壁内には、数10件、あるいはそれ以上の元家臣達の家がある。震災で、城壁の大半、家の一部が崩壊した。JHSの計画には、城壁の修復と城壁内のいくつかの建物の修復が含まれているという。
いずれにしても途方もない数字である。プジョクスマンのいろいろな建物に、JHSが調査した際に残した数字や記号の書いたビニールテープが貼ってあった。彼らは世界中の財団に、被災したジョグジャの歴史的建造物の再建資金を申請しているという。歴史的建造物の中でも、実際に伝統舞踊が教育されたり、公演されたりしているプジョクスマンは、とても価値があるものだと、JHSは評価しているそうだ。
しかし、実際にこの資金が調達され、再建が始まるのがいつになるのかは、全く予定が立っていない。

プジョクスマン舞踊団は、プジョクスモ夫人の弟であるロモ・サスが1962年に創立した。その際に、妹の夫であるロモ・デティも大いに手伝ったという。それ以降、プンドポで公演を行い、プリンギタン(母屋)に楽器や衣装を置き、ダレム(寝室)を事務所や楽屋として使ってきた。観光客の多かった時は、利益を分配し、赤字の時は双方で負担してきた。しかし、そこに契約書のようなものはなかった。

再建に伴って、JHSやプジョクスマン支援の会など外部の資金が使われることになる。この際に、なにがしかの約束事や契約書が必要となる。このことは、皆理解している。しかし、それをどういう手順で行い、どういう約束事を盛り込むか、と言うことに関して慎重な話し合いが行われているのだ。

この日の結論は、プンドポとプリンギタンを切り離して考える。つまり、プンドポだけを先に独立して修復する。事務所や倉庫は、敷地内の他の家を賃貸するなどして当てる。プリンギタンは、JHSとの作業とする。

ここまで話してブレイクになった。ロモ・デティの奥さんが作ったミー・ゴレンが出てきた。

敬意と慎みを持って、ねばりづよく、進める必要があるだろう。
ジャワ舞踊のように・・・

ジョグジャ滞在記 2 

7月15日
朝から地震の激甚地区にあるインドネシア芸術大学(ISI)へ行ってきた。写真では見ていたが、かなりひどい。建っている校舎とつぶれた校舎の差が激しい。何人かの先生と会って話をした。

僕が通っていた舞踊学科の校舎を訪ねた。
ガジャマダ大学の調査団の判定によると、校舎はまだ使用可能とのこと。おそるおそる入ってみた、しかし、最上階の4階まではとても行く気にはなれない。ましてや、そこでゆったりとしたジャワ舞踊の授業ができるだろうか。後になって話したトゥティ先生も同じ感想だった。彼女によると、教官や学生も怖くて授業ができないので、もう一度再調査するようにお願いしているそうだ。

ISIからすぐ近くにあるハリヤント先生の家を訪ねた。彼の家の周りも95パーセントの家が全壊。彼の家は半壊。震災以降、子供たちのための活動を開始していた。子供たちと、被災した家財道具で音楽をしたり、農夫の笠に絵を描いたりしていた。僕が訪れた時は、ISIの学生が3人、音楽や絵の指導にきていた。100パーセントのボランティアである。

ハリヤントさんの奥さんと近所のおばさんたちが子供たちのために炊き出しをしていた。これは、ジョグジャカルタ・タイムズの廣田緑さんが費用を支援している。メニュウはソト・アヤム(鶏肉入りスープ)とテンペ・ゴレン(大豆の発酵食品の揚げ物)。悪いと思ったが、ごちそうになった。竹とテントシートで作った簡易台所で炊事をし、これまた廣田さんが寄付をしたモスグリーンのしっかりしたテントで活動したり、ご飯を食べたりしている。被災地で大変なんだけど、みんな明るい顔でがんばっている。
しかし、この100パーセントボランティア状態では、いつまでも続けることはできないだろう。何らかの支援や自立策が必要だと思う。

昼からは、ジョグジャ州の外にある激甚地区中部ジャワ州のクラテンへ向かった。クラテンのスロウォッ駅の近くには、ISIのトゥグ先生が住んでいる。ジョグジャから車で小1時間、村の家が全て全壊している。久々のトゥグ先生との再会。去年の夏2ヶ月間、先生は我が家に滞在した。コーヒーやジュースも飲まない、シンプルな先生の生活がここで営まれていたのだ。家族や親戚も皆近くに住んでいるので、支援してくれる人もいない。かなり悲惨な状態だ。震災後訪れた何人かの人から、トゥグ先生の落ち込み具合を聴いていたが、何とか気を取り直しているようだった。残った壁と竹を編んだもので壁を作り、裂いた竹で桟を作り、テントシートをかぶせて屋根を張って、仮住まいを作っていた。何度もため息を聞いた。
日の入りのアザーンが流れる中、先生の家を後にした。

路上のワルンでやや油の多いミー・ゴレン(焼きそば)を食べ、プジョクスマンのブ・ティア先生のお宅へ伺った。自宅は半壊と全壊の中間ぐらい。比較的被害の少ないテラスで話をした。始めてブ・ティア先生と会ったのも、このテラスだった。緑色のマーブル柄のタイルが足の裏に気持ちいい。震災の時の話から始まり、職場の芸術高校、クラトン(王宮)、再建へ向けての経過、プジョクスモ家の家族のことまで、いろいろと話を聞かせてもらった。僕からは、日本での活動に関しての説明をした。

この日は、最後にプジョクスマンの舞踊家ランテップさんと韓国系元アメリカ人の舞踊家ジニー・パークさんの家を訪ねた。彼らの家は被災地の近くだが、瓦が何枚か落ちた以外にほとんど被害は受けていない。プジョクスマンの再建策について、いろいろと意見を交換した。

プジョクスマンの場所が持つ、複合的意味や役割が再建する際に、話を少し複雑にしていた。ゆっくりともつれをほどきながら、丁寧に進めて行く必要があると感じた。

ジョグジャ滞在記 1 

7月14日から18日までジョグジャに滞在しました。現地でプジョクスマン舞踊団や被災したガムランの支援団体「ガムランを救え!」の現地カウンターパートナーである「FORUM 7」のメンバーなどと会って、いろいろと情報交換をしました。

7月14日(金)
早朝に大阪の自宅を出発し、8時30分に関空着。その日に帰国した「ガムランを救え!」のメンバーであるジャワ舞踊家の采女さんと待ち合わせる。彼女も短期間の滞在だったが、支援活動をするNGO団体とかなりたくさん接触できたとのこと。

19:30 ジョグジャ着
たまたまその日がプジョクスマン舞踊団の44回目の誕生日だったので、被災したプンドポで儀式があり、そこへ直接駆けつけた。
暗くて、プンドポの様子はよくは分からなかったが、とにかくプンドポは立っていたし、舞踊団の仲間が元気な顔をそろえていた。震災後忙しかったのだろう、久しぶりに再会するメンバーも多いようだ。スラマタン(共食儀礼)でナシクニン(ターメリックライスを三角錐に持ったもの)を取り分けて食べた。

食後、意見交換を行った。子供たちの舞踊レッスンが先週から始まっていること、プンドポやプリンギタンの被災状況、公演の再会に向けて、代替地が探されていることなどが報告された。若いダンサーたちは、強く公演の再開を望んでいるようだ。また、年輩の演奏家たちは生活の糧としての公演が再開することも強く望んでいた。彼らの多くは、ロモ・サスの時代から長年、プジョクスマン舞踊団の忠誠を誓ってきた人たちだ。忠誠と書いたのは、他に実入りのいい仕事があっても、ロモ・サスのためにとどまったという意味である。ガムラン業界も結構、仁義が大変なのだ。

しかし、公演の再開は代替地の問題や観光客の激減や赤字が出た時の補填の仕方など、問題も多く。当面は、定期リハーサルをし、老齢の演奏者にはわずかな交通費+謝金を渡す案が出された。僕もこの意見に賛成だ。

僕も発言を求められた。日本で数多くの人がプジョクスマン舞踊団の被災を心配し、立ち上げた支援会にも多くの支援が寄せられていること、義援金を募るためのチャリティコンサートを行っていることを伝えることができた。

この日はそれでお開きとなった。親友、舞踊の名手ランテップさんが運転するアコードでジョグジャの自宅へ到着したのは、23時を回っていた。日本時間の午前1時だ。ジョグジャの家には、舞踊を習っている川原さんと西岡さんが滞在していた。彼女たちは、この家で地震にあったのだ。家に入った無数の大きな亀裂を見ると、彼女たちの恐怖は大変だったと想像できる。彼女たちと地震のことや舞踊ことを夜更けまで話した。あー、ほんとうに長い1日だ。